上ヶ原分水樋の流れ・1

関西学院大学の裏にあります。
寛文2(1662)年、上ヶ原新田が湯の口で取水する事で仁川下流の
五か村(段上・上大市・下大市・門戸・神呪)と水争いが起きたので、
仁川の大井滝に取水口を作り上ヶ原が7・下流五か村が3の割合に決めた。
明和5(1768)年、大井滝が大破し、木や竹を用いた水路の施設も壊れた。
翌年から、仁川右岸の岩山に穴を掘って上ヶ原へ取水する水路を作りはじめるが、
全長百数十メートルの岩山を掘りぬくなど34年かかって完成した。
安政3(1856)年、また水争いがおきたため、仁川下流の五か村と上ヶ原が
費用を出し合い、仁川下流村の持ち山の五ケ山にため池を作り(現・五ケ池と
隣のテニスコート)、大市二か村の門戸村・神呪村へは
上ヶ原用水路から分配することが認められた(上ヶ原分水樋)。

で、大井滝へは行ったことがないのですが、簡単にたどれる一番上流は
この写真の場所、地滑り資料館の奥のほうになると思います。
(白矢印は川の流れている方向を示しています)

この先上流へ向かって水路横をなんとか歩ける道はありそうなのですが
立ち入り禁止なっているので、ここを起点に川を下ってみます。

民家の裏を流れ

関学の裏で、上ヶ原・門戸・神呪へ分かれる場所があります

流れの様子はこちら → ゆーちゅーぶ
この後は、どこへ流れていくのでしょうか?
五か村(段上・上大市・下大市・門戸・神呪)と水争いが起きたので、
仁川の大井滝に取水口を作り上ヶ原が7・下流五か村が3の割合に決めた。
明和5(1768)年、大井滝が大破し、木や竹を用いた水路の施設も壊れた。
翌年から、仁川右岸の岩山に穴を掘って上ヶ原へ取水する水路を作りはじめるが、
全長百数十メートルの岩山を掘りぬくなど34年かかって完成した。
安政3(1856)年、また水争いがおきたため、仁川下流の五か村と上ヶ原が
費用を出し合い、仁川下流村の持ち山の五ケ山にため池を作り(現・五ケ池と
隣のテニスコート)、大市二か村の門戸村・神呪村へは
上ヶ原用水路から分配することが認められた(上ヶ原分水樋)。

で、大井滝へは行ったことがないのですが、簡単にたどれる一番上流は
この写真の場所、地滑り資料館の奥のほうになると思います。
(白矢印は川の流れている方向を示しています)

この先上流へ向かって水路横をなんとか歩ける道はありそうなのですが
立ち入り禁止なっているので、ここを起点に川を下ってみます。

民家の裏を流れ

関学の裏で、上ヶ原・門戸・神呪へ分かれる場所があります

流れの様子はこちら → ゆーちゅーぶ
この後は、どこへ流れていくのでしょうか?
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